講話例


『校長講話・学校だより -校舎改築までの思いを込めて-』より


  序にかえて

 平成十三(2001)年四月に世田谷区立駒沢小学校長を拝命、着任以来三歳の四季を過ごしてまいりました。
 校長の職務の一つとして、学校だより『駒沢』の巻頭言、毎週明けの全校朝会「朝礼講話」、そして毎月の「PTA運営委員会での挨拶」、PTA広報紙『KOMA』を通して、児童、教職員、保護者及び地域の方々に時々の学校の課題に触れ、私の思いや願いを語り綴ってきました。
 平成十三年度には、駒沢小開校百周年記念式典等の行事が故・長谷川重夫先生を会長に頂く「百周年協賛会」に支えられながら推進され、式典も盛大に挙行されました。また、同年に駒沢小は世田谷区の第九番目の校舎改築校の指定を受け、新校舎基本構想検討会が持たれました。
 平成十四年度には、新校舎の基本設計、実施設計、および仮設校舎の設計が同時に検討されました。住民説明会が世田谷区によって数次にわたって開催され、まちづくりセンターによる児童の改築に向けたワークショップ(共同作業)が展開されました。
 平成十五年度には、仮設校舎の建設と本校舎から仮設校舎への引越しが行われました。校舎改築を私は駒沢小の「二十一世紀教育新生プロジェクト」と命名し、工事が進捗する各段階を二年毎にXYZに区切りつつ、学校経営を進めてきました。
 平成十三年からスタートし、平成一九年に竣工する息の長い、大事業のプロジェクトXからYの段階に移行する中で、私はこの三月に停年退職を迎え、本校本職を、辞去することになりました。
 百有余年の伝統を有する駒沢小学校にとり、この三年間は歴史を画する出来事の連続でした。いくつもの蹉跌を経験しましたが、世田谷区教育委員会、校長会による支援、児童、教職員、PTA、保護者及び地域社会の人々の温かな理解と協力により、着実に学校及び教育課程の経営を推し進めることができたことに厚く感謝を申し上げたいと思います。そして、後進のためにこの間の校長私の説話・講話を本書一冊にまとめ、記録として留め置きたいと考えました。
 また、三十有余年の教職生活を終えるにあたり、過去に著わした拙文・拙稿を余白に充て、未熟者の恥多き成長の足取りが容易に見て取れるよう片言隻句も織り込み、ご笑覧いただこうと愚考した次第です。
 結びに、皆様のご健勝と駒沢小学校のご発展をお祈りし、序の言葉と致します。

 平成十六年盛夏
著  者

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『感動をよんだ校長の講話』より


  船と横波 −困難を恐れるな−

 積丹半島の古平から余市までは、直線距離だと二十キロにも満たない。しかし、海岸道路がなかったころは、峰を登り谷を下る曲りくねった道で、三十キロにもなるという文字どおり“羊腸の小径”であった。
 だから、海が相当に荒れても、船を利用する人が多かったのは、むしろ当然の成り行きであった。
         * *
 学生のころであった。
 春休みを終えて札幌に向かう日は、前日までは運行どめをしたほどの大時化(しけ)で、うねりは気味の悪い音を出しながら防波堤をかんでいた。
 出航するかどうかについての打合せは、長いこと暇どった。人命を預る船長にしてみれば、その判断に慎重であるのは当然のことである。
 私は、荒波の日の航海を恐れながらも、あの山道の難渋を思い出したりして迷っていた。
 しばらくして船長は、「乗船よし」と叫んだので、それにつられるように船の方を選んだ。
 学生の気安さから、例によって見学を兼ねならがら船長室を訪れた。
 やがて、船が港外に出たとたんにひどく揺れだしてきたので不安がひろまり、顔から血が引いていくのが自分でもわかった。その時、逞しく潮焼けした老船長が、こんな話をしてくれた。
「絶え間なく押し寄せてくる波は、みんな同じように見えるだろうが、決してそうではない。その一つ一つが違っているもので、そのうち幾つかは割合小さいのもあるし、また、幾つかは特別に大きいのもある。
 俺は、こんな時化の日には、港を出たらすぐ、一番大きい横波に船の腹を打たせてみることにしている。これは船にとって最悪の状態だ。しかし、これを乗りこえたら、後は数多くの波が来ても無いと同じだ。安心と自身とが持てる。それによって余市までの船旅の無事が保障されるのだ」と――。
         * * *
 それから、この言葉が私の胸にやきついてしまって、何年たっても薄らぐことはない。困難に遭うと、“船に横波を――”“最悪の状態おいて――”“ 後は無いと同じだ――”の言葉が耳の奥から聞こえてくる。そして、困難に立ち向かう強い心が湧いてくるのである。

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